『私は、この世に生まれてきた事をこんなに嬉しく思った事はない』
切なげに俯く男性。緩はそっと口元を綻ばせる。
『だって生まれてこなければ、君と出会う事もなかったのだから』
画面の中の仮想現実。だがその世界が、緩の楽園。
自分を見つめる中東風の男性。低く甘やかな声にうっとりと耳を傾けながら、背後の微かな音にビクリと肩を動かす。
どうやら、廊下の床が微かに軋んだだけのようだ。足音も人の気配も感じない。
小さくホッと息を吐き、だが同時に湧き上がる苛立ち。
ちっとも集中できないじゃない。
「学校でバレたらどうなるんだろうな?」
下卑た声。こんなバーチャル恋愛にハマっているなどという事実が学校でバラされたら、まず間違いなく嗤われる。だから、絶対に知られるワケにはいかない。だが―――
「お手間を取らせて、申し訳ありませんわね」
携帯で呼び出され、急いで舞い戻った学校の副会長室。主の廿楽華恩はお気に入りの紅茶カップを手に眉を潜める。
「お忙しかったら、明日でもよろしかったのですけれど」
呼び出しておきながら悪びれもせずにしれっと口にする。だが、緩に抗議する権利などない。
絶対服従。
「いえ、かまいません」
即座に答え、間を置かずに続ける。
「あの、それで、ご用件とは?」
「えぇ 実はね」
そこで華恩はもう一口。視線を落し、口の中で紅茶を堪能するようにゆっくりと飲み込み、そうして再び緩へ向かう。
副会長室の長テーブル。その端と端で向かい合う緩と廿楽。一人は優雅に片手を肘掛に添え、一人は椅子も与えられずに立ったまま。
「実は、妙なお噂を耳にしましたのよ」
「噂?」
「えぇ」
華恩は、一度瞬く。
「緩さんが、大迫美鶴との件を撤回するなどという、妙な噂」
緩の双眸が大きく見開かれる。その態度を、華恩は見逃さない。
「本当は大迫美鶴は何もしておらず、全部緩さんの狂言だというの」
口調は優雅だ。
「本当ですの?」
両親や環境から仕込まれた仕草を崩すこともない。だが、言葉の端に見えない棘を潜ませている。
緩にはそう感じる。
「それにね」
目を見開いたまま言葉の出ない緩に、華恩は言葉を重ねる。
「緩さんに狂言をさせたのが、この私だというのよ。とんでもないお話ですわ」
語調は変えぬまま、だが明らかに責めている。
「まぁ、私としましては、緩さんとお親しくさせて頂いている上級生という立場もありますし、緩さんに非があるというのが本当なら、素直に認めるよう諭すのが務めだとも思っているのですけれどもね」
つまり、罪は一人で被れと言う事か。
親しくさせて頂いている? よく言えたものだ。
この場に聡が居たらとっくの昔に突っかかっていただろうが、緩は言葉もなく立ち尽くす。奥歯が小刻みに震える。カチカチと音を立てている。
瞠目し、時折視線を泳がせる緩の表情に、華恩はふふっと笑う。
「あら、でも私、緩さんを信じておりますのよ」
信じている。本来この言葉には、人を安堵させ、喜びを与える力が備えられている。だが今の緩には、威圧と畏怖しか与えない。
|